きっと適当に生きていると、誰かしらに怒られます。
この世の中、適当に生きさせてくれるほど、世の中は甘くないのが現実です。
もしかしたら、適当に生きる人生というのは、私たちにとっては人生の最終地点なのかもしれません。
適当に生きられない世の中は、きっと今後も変わらない
今の時代、適当に生きようとすればするほど…
手を抜くなと誰かに怒られます。
自分勝手と嫌われます。
使えない奴と見捨てられます。
だらしないと馬鹿にされます。
適当に生きるということは、今述べた環境を乗り越える覚悟、受け入れる覚悟が必要ということです。
この最悪とも言える環境を受け入れ乗り越えられる人の精神力は、もはや悟りを開いていると言ってもいいぐらい、すごいことだと思います。
そうなんですよ。
適当に生きられるような人って、それぐらい一握りしかいないんです。
世の中は、多数決で常識やルールが決まりやすい。
当然、適当に生きている人が世の中に少なければ、「その適当に生きる人生はダメなこと!良くない!」という否定意見が世間的な常識になるわけです。
なので、ほんの一握りしか辿り着けないこの適当に生きる人生に対して、世の中の人たちが肯定する時なんてのは、今後も来ることは難しいと言えるのです。
適当に生きる人生は、人本来が求める人生の最終地点?
人はさ、きっと本当は自由が好きなはず。
頑張りたい時は頑張って、やりたくないときはやらない、そんな素直でありながらも、適当に生きられるような自由な人生が大好きなはず。
いわゆるこれが、本音というやつです。
このように適当に生きられる人生って、人が一番心の中で求めている理想の人生でもあり、人生の最終地点なのかもしれません。
どんな道・人生でも肯定も否定もしなくていい!本当は自由です。
この適当に生きるという人生。
きっと勇気を出して飛び込んでみたら、自由を感じられる良い世界かもしれません。
しかし当然、いばらの道になることもあるかもしれない。
たくさんの敵を作るかもしれないから。
それでもなお、自分はどうしていきたいのか、どうありたいのか?
ここが重要になってくるのです。
どんな道、どんな人生を歩んでも、基本正解も答えもありません。
自由のない常識やルールに縛られた人生は、辛いこともあれば、その分安定することもあります。
適当に生きる人生は、自由に暮らせて、楽しいこともいっぱいあれば、その分安定しないこともあります。
この安定というのは、何かと引き換えに得られるもの、得られないもののことを言います。
どちらの道も、どちらの人生もメリット・デメリットはあるということです。
だから本当は、どちらの人生も否定する必要もないし、肯定する必要もないということ。
否定も肯定もない=適当に生きるを選ぶのも、個人の自由なはずなのです。
ここを改めて知ったうえで、「自分はどうしたいのか…」をもう一度考えて生きてみるのもいいかもしれませんね。
誰になんて言われようともね…。
ただどんな結末になろうと、自分で決めた道です。
自分にとっての最終地点がどんなものでも、自分を信じて何より行動することが大切なんだと思います。
是非、自分の今進んでいる人生・生きている道が、自分にとっての最善の最終地点に向かっているのか考えてみてくださいね。
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